ジャージー
「獏と海星と波と」

 正午を少しまわった位なのだろう、カフェテリア(馬鹿馬鹿しい話なのだけれど、僕の通っている大学では学食のことをそう呼ぶことになっている)の椅子に座る学生が、服に広がる滲みのように増えてきた。
 僕は読んでいる本から顔を上げ、窓から良く晴れた外を眺め、左腕を見る。しかしながら、そこにはあるはずの時計が無い。そう、今日僕はわざわざ時間を合わせ、螺子を捲いた時計を忘れてきてしまったのだ。
 ポケットから携帯電話を取り出すなり、席を立って掛け時計を見るなりをすれば、明石市を基準とした時刻は調べられるのだけれど、別段時刻が知りたかった訳でもないので、読み掛けの本にふたたび取り掛かる。 
 
 その頃にはカフェテリアにできた滲みは、もう取り返しのつかないような大きさになっていた。

 
 「椅子、借りて良いですか?」近くに座ろうとしていた女の子のグループの一人が近づき、言う。
 「良いですよ。別に誰も来ないだろうし」と、僕。
 「本、読んでいるんですね。騒々しくないですか?」
 「さっきまでは閉め切った冷蔵庫の中みたいにしんとしていたからね。あるいは、今は確かに少しうるさいかもしれない」
 人の話し声なんて意外と気にならないものさ。と、言おうかとも思ったけれど、やめた。おそらく彼女は僕みたいに暇ではないのだ。少なくとも彼女の青春の一部分は友人とのお喋りで成立しているように見えた。
 「あ、椅子ありがとうございます」軽く会釈をし、小さい彼女は大きな椅子を引き摺って去っていく。
 「どういたしまして」
 人の声なんて。と思ったわけなのだけれど、小説の筋が頭に入らなくなってきたので、本を閉じ、目をマッサージし、体を軽く伸ばす。軽い尿意を覚えたけれど、込み合っているであろうトイレに向かう気はおきない。元来、人ごみは苦手なのだ。


 
 「いつも公園でアヒルや鴨を眺めているだけだと飽きるわよ」
 彼女がそう言ったので、僕は仕方がなく繁華街に出かける。雑貨屋、古着屋、カフェ。この街には人が多すぎる。それに、僕は人が多すぎると緊張してしまうのだ。
 「動物園のパンダみたいだ」
 「え?パンダ?」ワッフルを刺していたフォークを皿に置きながら、彼女が訊ねる。
 「そう。笹を食べる大きな猫」
 「考えすぎよ。誰も私たちなんて見てない」
 そんな事は分かっている。誰も僕のことなんて気にも留めないし、そもそも、僕だって他人がどういうセックスをしようが何ら興味は無い。
 「そういう問題じゃないんだ」
 「それに、どうせ論理的な説明はできない」と、彼女。
 「認めるよ」と、僕。
 「なあ、でも俺って何だと思う?」
 
 おそらくは、シャーロック・ホームズが事件に遭遇することを止められないように、大半の思春期の子供がぶつかり、放っておく問題を僕は未だに消化しきれていない。アイデンティティーを捜し求める小説も書こうとしたし、誰かを深く愛そうともした。けれど、結局小説は諦めてしまったし、誰かを深く愛そうとすることは、とても上手くいきそうになかった。彼女は言う。私は何?

 

  「ありがとうございました」女の子が椅子を引き摺りながら戻ってくる。
 「小説、集中できましたか?なんか眠そうだけれど」
 「うん。やっぱり駄目だったみたいだね。結局寝ちゃったよ」

 
 日の暮れてゆくのをみとめて、僕は席を離れる。左手を眺め、時計の不在を思い出す。今の時刻だって別段知る必要はない事に思いつき、調べずに閑散とした構内を後にする。カラスが頭上で鳴き、傍にフンを落とす。
結局、読んでいたはずの小節は話の筋すら良く掴めなかった。


 その日の夜、僕は大量の睡眠薬を飲んだ。


 目を開けても、体の感覚はない。なぜ僕は寝ているのだろう?それに、ここは何処なのだ?
 「おはよう」声は聞こえないけれど、彼女はそう口を動かす。
 「うん。夢を見たんだ」
 「ゆめ?」無音の返答がある。
 「そう、夢。コンクリートにヒトデが落ちているんだ。で、獏がそれを食べにくる」
 「それで?」
 「うん。それで、獏がまさに食べようとした瞬間にスーパーマンが登場するみたいに、強い波が襲ってくるんだ」
 彼女は無言で頷く。
 「で、獏は何処かへ行ってしまう。もちろん、ヒトデは助かる」
 「つまり」と、言ったまま彼女は黙ってしまう。
 強い眠気の襲ってきた僕はおやすみを言う。
 彼女は今度ははっきりと聞き取れるような声で言う。「おやすみなさい」

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