しめじ
「鏡の沼」

 海、そう海だ。目の前にいっぱい広がった海の絵。モルタルの壁に書かれた波うち際には、紫色の鏡が埋まっている。鏡は陽光を反射しながら、彼の小さな母親の姿を映していた。

 ゆっくりと絵の上に舌を這わせる。突起の群れが舌先をつつき、血管の中をガラス片が泳ぐ感覚。鉄の味がする絵の具を全て舐めきると、薄汚れた壁に古めかしい扉が描かれていた。真鍮の取っ手は冷たく湿っている。

 ガチャリ。

 取っ手が回転して、扉が開く。腕をもがれた白い石膏像が、ゆっくりと、しかし威厳に満ちた足取りで部屋に踏み込んできた。涙を流す雪色の石女。蛇のようにしっとりと濡れた白い肌と扉から吹き込む風は、モクレンと潮の香を部屋に充満させた。

「ひきだしを開けてください」

 石女の言葉が壁に反射する。彼が振り向くとそこには机があった。ひきだしを開けると黄土色の粘土が入っている。指で触れると生暖かい。石女は相変わらず白い涙を流す。

「それではありません。三面鏡のひきだしです」

 右を向くと、三面鏡が壁側に置かれていた。ところどころ塗装がはげている。ひきだしを開けると水晶の刃を持つ斧が入っている。振り向くと石女は初めて笑みを浮かべた。その瞬間、白い首がカラリと転げ落ちた。

 トン、という音がして石が地面でくだけた。接地面から同心円上に白い砂が広がる。三盆糖のようなきめ細かさ。彼は手にした斧を捨て、四つんばいになって砂を舐め始めた。

「私が消えたら絶対に鏡を見てはいけません。二度と会えなくなります」

 石女の粒子が舌の上で忠告する。すっかり地面の砂を舐めきると、今度は腕のない胴体にしゃぶりついた。2日間かけて女を味わいつくすと、後に残ったのは、アルビノのタンポポ。女の姿は消えてしまった。花びらをさらう潮風。白い花びらは渦を巻きながら扉の奥へと消えていく。彼は追うようにして外へと飛び出した、首が折れ、丸裸になったウサギを残して。

 扉の外には壁が蔓延していた。行くところ行くところ、壁だらけで思うように歩けない。壁は様々な色をしている。白、黒、赤、緑、青……。くすんだものから新しいものまで、めまぐるしい数の壁が立ち並んでいる。しかし、彼にとってそれは壁でしかなかった。ただの障害物だった。

 沈んだ心が滴り落ちて地面に真っ黒い染みを作ると、それは彼の影になった。影は楽に壁へと入り込む。それが気に食わなかったのだろう。彼は影に向かって斧を振るう。しかし、一向に影は離れようとしない。しまいには足の親指を落としてしまい、痛みと疲労感を背負ったまま、再び歩き出した。

 真っ赤な壁の向こうに雪色の彫像が歩いている。彼女だ!! 足の痛みも忘れて、彼は一直線に駆け出した。しかし、壁だ。無数にある壁が彼の行く手をはばみまっすぐに進むことができない。何万色もの壁が畳み掛けるようにして彼にまとわりつく。斧を振り回し、壁をなぎ払い、懸命に前進を続ける。

 急に斧が重く感じられ、まったく肩が上がらない。見るとカラスが十羽腕に止まっている。しっかりと握られた肩は部分的なうっ血がはじまり、とろ火であぶられるような痛みで覆われる。空いた方の手で追い払うがまったく効果がない。睨めば鼻をつつかれる。無情にも押し迫ってくる多種の壁。一向に前進することができない。そんな彼を置いて影だけがするすると壁を抜けて奥へと消えていった。

 ぽつん、という音がして、影が足元から外れた。あれだけ切れなかった影との境界が急に切れたので、彼の体は大きく空へと飛び上がった。ぐんぐんと高度を伸ばし、多色刷りの壁たちを眼下に見下ろす。壁は自身の一部を接地していなくてはならず、彼を追いかけることができない。影のなくなった彼は自由になった。まぶしいほどの白い風が頬をなでる。車座に集まった壁、中心は青色の壁、外円部にいくほど赤い色の壁が集まっていた。その最も外側に女と影が戯れているのを見つけた。

 首筋に衝撃が走る。空の限界にぶつかったのだ。軽く骨を鳴らし、目標を定める。目標は石女と影。水泳の要領で一回転して空を蹴った。

 調弦ができていないコンチェルト。耳に緑色のカミキリムシがくっついていて、方向が右にそれる。女と影がいる場所の隣に、壁が四枚並んで小さな空間を作っている。そこ目掛けて彼は飛んでいった。虫がギリギリと鳴いていたので、三半規管が完全に狂ったのだった。

 中は白紺チェックのタイル張り。黒雲母でできた便器があって、そこに座るとちょうど目の前にのぞき穴があった。人差し指一本が通る穴。用心深く何度も指を突っ込んで安全を確認する。針などで突かれてはたまらない。彼はもう一度人差し指の腹で穴の中を触診すると、壁に引っ付いて穴の中を覗いた。

 外では影が白い女に歩み寄り、その足元にくっつこうとしていた。女は少しだけ拒むような動作をする。しかし、相変わらず優しく笑って影のすることを見ている。

「あいつなら空に落ちて死んだよ。人間なんて俺たちがいなくなると遠心力で飛ばされる」

「実像がない影なんてありえない。あなたも死んでしまうんだ」

「ほっとけば地面に溶けてしまう。だからその前に……」

 そういって影は女の足に取り付くと、親指を舐めはじめた。念入りに指の股まで舐めている。女の足を口に含んだまま影は顔を上げた。女は静かに笑っていた。

 手のひらに汗をかいていた彼はしきりに壁で手を擦る。何か硬いものに触れたと思ったらいきなり頭上で轟音が鳴り響いた。見上げると丸太のような水流。鉄砲水だ!! そう気づいたときにはもう遅く、狭い個室は空からこぼれた水でいっぱいになる。

 あっというまにあふれかえった水によって壁の外に流される。あっけに取られる影。女は笑っている。

「飛んでいったはずなのに」

「天上から戻ってきたのさ」

 彼は言葉と同時に影をわしづかみにして、便器の中に放り込んだ。引き金をひいて水を流して蓋をする。ふたの上に「奈落」と書いた紙を貼った。

 女に向かって手を差し出す。女の幻肢を優しく掴んで彼は元いた部屋へと戻った。


 ロータスの香が漂う部屋の中で、二人は見つめあった。小さな栗色の瞳は彼にとってまぶしすぎた。思わず眼球を舌先で舐める。舌を濡らす水あめのような液体。女はくぐもった声で悲鳴をあげる。もう一度見つめあうと、今度は女が彼の眼球にキスをする。赤い舌先が触れた瞬間、胸にアネモネが咲いた。曇った視界の中で女の雪色の肌が明滅し、モルタルに溶け出して見えた。

「鏡を見てはダメだといったのに」

「鏡なんて見ていない」

「覚えてないの?」

「そんなのもうどうだっていいだろ」

「今さっき見たのに……」

「今は君しか見ていない」

「見たのよ、私の心の鏡を」

 耳が炎症を起こしてノイズが頭に響く。女は微笑むと壁の中に消えてしまった。耳鳴りが酷くなり、女の眼球に映った彼自身の姿がまぶたの裏側に写しだされる。その瞬間彼の叫びで部屋中の空気が青く染まった。


 光、そう光。涙で覆われた眼球をえぐったのは、蛍光灯の強い光だった。目の前には白衣を着たひげの男が立っている。割れた鏡を拾い集めながら、男はしゃべりだす。

「もう大丈夫だ。君はきちんと自分を見つけることができた。外に出てみたまえ。君はもう大丈夫だ」

 彼はいわれるままに扉の外に出る。外は海ではなく薄緑色の廊下が続いていた。窓には雨が打ち付けていてやや肌寒い。窓際に飾っている百合の花びらが一枚落ちた。それを拾う壁。叫びを上げて、後ろを見る。そこにも壁。

 叫びを上げる壁、泣き出す壁、走り回る壁。ありとあらゆる壁が渾然一体としている。その壁は骨と肉で覆われて、あろうことか人間の形をしていた。


 彼は鏡の破片を見つけて、その中に壁を作って幸せに暮らした。

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