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ジャージー 「ねじまきウサギは跳びつづける」 |
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狭くてきれいとは言い難い部屋で、ベッドに座る僕の正面にあるクッションに座った彼女は雑誌を読んでいる。窓のその外の事なんて見えないけれど、おそらくは晴れている。赤い光で彼女が染まり、世界が笑っているのが見えるからだ。 唐突に部屋に鳴り響いた目覚し時計を止め、横になっていた僕は赤い日の差し込む正面を見つめる。 そこは、食べ終えたままのカップ麺と、クッションに座ったねじまき式のウサギのオモチャが、互いの憂鬱を分け合うようにして並んでいるだけだ。 そもそも、なぜ目覚し時計なんてセットしたのだろう?そんな事すら思い出す事もできないし、考える事も億劫になる。つまり、目覚し時計は鳴って、僕の前にはウサギが座っている。それだけの事なのだ。それでいい。 眠れない夜に頭に増えつづけてゆく羊が酔った頭の中で暴れ廻ったせいで、頭がひどく痛む。昨日の事を思い出そうとして、壁に掛けてある凡庸なカレンダーを眺める。大体今日は何月何日なのだろう。一日一日は溶けてゆき、一つに固まってしまっていた。まるで、小学生の作るバレンタインのチョコみたいだった。 僕は物事を考える事をすっかりと諦め、冷蔵庫から冷えた牛乳パックをだし、そのまま飲む。そして、洗面所へ向かい歯を磨き、シャワーを浴びる。全てを無感覚に終えてしまうと、少しは羊が彼らの世界へ戻って行ったような気がした。 ベッドに戻り、洗濯されたTシャツを頭から被っていると、チャイムが鳴る。ハーフパンツを履き、ドアを開けると、少しだけ微笑んだ尚美が立っている。 「おはよう」と、言いながら彼女はヒールの靴を脱ぐ。 「今日は何かありましたっけ?」と、僕。 「見に来ただけよ。昨日連絡したじゃない」 「そうでしたね」そうだった。だから目覚まし時計は鳴ったのだ。たぶん。 「どうせろくなものは食べてないんでしょう、カップ麺ばかりで」 そんな事はないと言いながら、僕はカップ麺を手に取り、ごみ箱に捨てる。ヤキソバだって、パスタだって、うどんだって、タイカレーだって作ります。と、付け加える。 「タイカレー?」 「はい、今度食べに来てください」 そうするわ。と言って、彼女は冷蔵庫を覗き、顔をしかめる。 「やっぱり何もないじゃない。大した物は作れないけれど、少し待ってなさい」彼女はそう言い、持ってきたらしいスーパーマーケットの袋から次々と食材を取り出し、キッチンに並べる。まな板が無い事に不満を言いながらも、彼女は料理を始める。 「で、何をしているの?最近」横を向いた彼女は訊ねる。 「国際平和とか、国庫のプライマリー・バランスの事とか、羊の事とか、わりと忙しいんです」 「羊?何よ羊って」 「夜になると無数に来るんです。多分まだ何頭か部屋にいるんじゃないかな。それから、こいつと遊んでいます」僕はそう言って、目の前のクッションに座ったウサギを指差す。相方だったカップ麺がいなくなったウサギは、とても寂しそうに見える。 「ねえ」と、彼女は言い始めたけれど、僕は構わずに話す。 「こいつっておもしろいんですよ。こうやってねじを巻くんです」捕らえられたウサギは、僕が手を離すとシンバルを叩きながら跳ね始める。 「前向きでしょう?少なくとも、プライマリー・バランスよりは明るい」シンバルを鳴らすウサギは、背を向けながらクッションの方へ戻ってゆく。 「羊よりもね」彼女も付け加える。 「ねえ。尚美さん。一般論として、記憶というものは感情と同じように、僕が思うよりもずっと早くに移り変わる様な気がするんです」こちらを見つめる視線を感じたような気がしたのだけれど、僕はそのままウサギを見つめ、話す。 「もう僕には彼女の顔が完璧には思い出せないんです。そして、僕が全力を掛けていた感情の価値みたいなものは息をつく暇も無く急降下していっています。今、この瞬間だって投身自殺者のように落ちつづけている。でも、僕はこう思う事にしたんです。つまり、ある種の匂いや音や景色の感覚は、あるきっかけを与えるだけで甦るように、ずっと手の届く所に陳列されている。けれど、色を失わない現実だって何処かずっと奥のほうで息を潜めているんじゃないかって。だって、そんな愛おしかった記憶の倉庫はそんなに雨風の当たるようなところにあるべきではないんじゃないか。って。そして、きっとその倉庫の鍵はウサギが持っている」 「ウサギが?」 「そう、正確には、ウサギみたいなものが。だと思います。上手く言えないけれど」クッションに近づいていて止まったように見えていたウサギは、最後に一跳ねしてクッションに上る。 「ウサギ的なものか」尚美さんはそう言って、鍋の火を消し、体をこちらに向ける。「味噌汁、出来たわよ。メインはもう少し待っていてね」 「悪いんですけれど、もう少しだけ眠って良いですか?」 「良いけど、しっかり起きて食べてよ。せっかく来たんだから」 「もちろん、起きられると思います」 ベッドの上に横になり、羊のいなくなった部屋で僕に背を向けて座るウサギを見る。いつのまにか部屋に射していた赤い光はなくなっていて、ウサギの背中が少しだけ遠く見える気がした。 僕は静かに目を閉じ、短い眠りに向かった。 |
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