さかか
「(動かない風が…)」

「(……)
 動かない風がゆきどまりに迫った壁の影に溶けるとき
 夜よりも深く青い闇が通りすがりの白いひとを照らし
 満ち欠けをやめた半透明の月あかりがその頬をつたう 
 ついに開かれることのなかった二枚貝の記憶のなかで
 くちびる色のかなしさがきらきらと音をたてて燃える」

 そこまで読んで本を閉じてみかんをその上にのせてあくびをひとつして寒くはないが炬燵にもぐると足首から上のない長い爪の輝く足があった。輝く爪の長い足は靴下もしくはストッキングを欲しているようにみえたので靴下を脱ごうとするとカーペットのしたのほうへ歩いていってしまった。片足だけでもけんけんしないで普通に歩いていった。炬燵蒲団のすきま風が吹きつける背すじのあたりに寒さを感じたので炬燵から出ようと思ったわたしは隙間からもれるあの光のほうへ這っているのだがどういうわけか炬燵の外へ出ることができない。立ちあがって走っても暗い炬燵のなかは意外に広いらしくあの光は北極星のようにその位置を粛然と保っている。わたしはちいさくなってしまったのだろうか。炬燵はおおきくなってしまったのだろうか。それともこれは夢なのか。いずれにしてもさきほど片方だけ靴下を脱いだことをわたしはとても後悔している。カーペットを敷いているはずなのに足元は氷のようにつめたいのである。しかしほんとうにさっき靴下を脱いだだろうか。寒さに全身をこわばらせながらとぼとぼと歩いているとふいに右手がしめった壁に触れた。ときおり手さぐりで右側に壁があることを確かめながら歩いていくうちに暗闇に目がすこしづつ慣れてきた。しめった壁はそれほど高くないがぬるぬるした苔のようなものがやわらかく敷きつめられていて海底に生えた軟体動物のように揺れているから登ることはおろかもう触ろうという気もおこらない。その向こうにはあかりのきえた病院のような学校のような真新しい建物がたちならび、道は、というかその壁のある場所はすこしづつ下り坂になり、自然とわたしの足も早まってゆくと、とつぜんなにか硬いものにぶつかって驚いたわたしは三歩うしろに跳んだ。「赤です。」とその硬いものは言う。「赤はやがて青くなりますが、みるみるうちに黄色くなってしまうやいなや、すぐに赤です。」はあそうか赤なのか、と思って上のほうを見たが信号機などはなくて、見回してみると足元に赤らんだ鼻が落ちている。知らずに踏み潰してしまったのかもしれない。硬いものは背を向けた男のようだったが、鼻が赤みを失ってあたりのくらさに溶け入って見えなくなったときには、すでに背を向けた男はいなくなっていた。かと思うといきなり背中を触るものがあって振りかえるとこんどは腰のまるまったちいさな老婆がくしゃくしゃの紙を広げて、どうやらそれは渋谷区の、しかもわたしのマンションもそのかたすみに位置している地図なのであった。ドン・キホーテのあたりに赤いしるしがしてあったが、「ここへ…」とつぶやく老婆のふるえる指はどうもわたしのマンションのあたりをさし示しているようだ。「ここへ…」と老婆はふたたびしわがれた声をあげる。わたしも腰をかがめてお婆さんに聞こえるように「そこは、ここです」とおしえてあげた。事実、ここなのである。炬燵のなかだとはいえ、それが何千分の一にも縮小された地図上にあっては、老婆の言う「ここ」がそのあたりである以上、そこは、ここだと言うほかはないではないか。だというのにこのお婆さんは「ここへ…。ここへ…」とくりかえすばかりで一向に釈然としない様子なのである。顔を見て目を合わせ、だからそこはここなのだと納得させようとしたがまるでワラビの芽のように腰の丸い老婆の顔がどこにあるのかわからず、むしろわたしのほうがその位置を尋ねたいほどで、かわいそうだが「ここですよ」とにこやかに言い捨てて、落ちている鼻を踏まないようにあの光へむかってしめった壁づたいにその下り坂を歩き出した。「ここへ…」という声が遠くなって、なんか気になるから振りかえると老婆は下のほうにいるように見えた。下っているのだから「そこ」にいた老婆は上のほうにいるはずなのに老婆は下り坂の下のほうにいた。どちらを振り返っても下り坂だった。もうわけがわからない。とにかくあの光だけをたよりに、わたしは老婆のいないほうへと小走りに駆けてゆく。しばらくすると「順路」と書かれた立て札があったのだが、そこで道が分かれているわけではないし、いくら目を凝らしてみても矢印のような方向を示す記号はなく、立て札はただ「順路」とぶっきらぼうに言い放っているだけなのである。その「順路」の近くで水の音がしているので、なんだろうと思っていってみると、男が立小便をしているのである。いや女かもしれないがとにかく数十人はいそうな人びとが並んで一斉にしめった壁に尿をかけているのだ。しかもその尿は壁に触れるときらきらと輝く黄金色の糸のようなものと化してぬるぬるした揺れる苔にからまっているので、だから彼らひとりひとりの尿が下り坂を流れていくうちに嵩を増して濁流となる心配はないが、それにしてもこの人たちはよその炬燵のなかでいったい何をしているのか。憤懣やるかたないまま、それ以上進む気もしないから引き返した。引き返したからしめった壁は左側にあるはずなのに右側をふさいでいる。そのむこうには病院なのか学校なのか識別しがたい真新しい建物が立ち並んでいる。あれ? と振り返ってみるとタクシーが来た。ちょうどいい。これで炬燵の外に出れるぞ、と乗りこむと、明るく暖かいその車内はバスのようで、整理券をとると「当たり」と書いてある。乗客の視線がわたしの手元に集まっている。靴も履いてないし左足しか靴下を履いてないのを気にする余裕もないほど疲れていたので空いた席に座ろうとしたがバスはすぐにとまり「終点です。ご乗車ありがとうございました」のアナウンスが響く。降りようとする乗客に押されながら運転手に「当たり」の整理券を渡すと「はいそれでは、どちらかお選びください。はい」と言ってみかんとどんぐりをさしだした。わたしは本のうえに置いたみかんを思いだす。みかんは何となく不吉だ。だがどんぐりは中に虫か何かがいるらしく、ひくひく動いている。どちらもいりません。いまお金を持ってないので後で払います。というと運転手は「はい謙虚でよろしい。その心をたいせつにしてください。お代はけっこうです。はい」と昔話にでてくる神様のようなことを言って扉が開く。バスを降りるとそこはうちのマンションのエレヴェーターの中だった。やっと帰ってきた。これでこの夢物語も結末を迎えるのだろう。もう決して炬燵のなかにもぐったりしないようにしよう。わたしは3階のボタンを押して、次々と入ってくる人たちのために「開」ボタンを押し続け、機嫌がよくなって「ご利用階数は」などと言ってみたりしたが、だれも何も言わないのである。みんな3階に何をしにくるのだろう。何だか不安になってきた。定員オーヴァーのアラームが鳴ってもだれも降りようとしない。しかたないから階段をのぼると、3階にわたしの部屋がないのである。うす暗い渡り廊下はわたしの部屋番号にたどり着く前に行き止まりになっている。そういえば鍵も持っていない。「動かない風がゆきどまりに…」炬燵の上に置いてきた詩集の断片を思い出した。それにしてもつまらない詩である。「くちびる色」なんてよくもまあ臆せず書けたものだ。作者はたしか坂井だったか笠井だったかしらない名前だった。なぜわたしはあんな本を読んでいたのだろう。エレヴェーターから沢山のひとが降りて吸いこまれるように303号室に入っていった。まっしろな人がわたしの傍らを通りすぎていった。だがそっちは行き止まりのはずだ。「青い闇が通りすがりの白いひとを…」べつに暗記したわけでもないのにつまらない詩の断片が執拗に脳裡をよぎる。まっしろな人は廊下を右に折れてゆく。行き止まりだと思っていた廊下は右に曲がっているらしかった。わたしが彼女をおいかけたのは、たぶんあのまっしろな人は女だと思うのだが、炬燵のなかで脱いだあの水色の右靴下を履いていたからにほかならない。黒の上下に水色の左靴下でノーメイクという装いのわたしは、水色の右靴下を履いたまっしろな人を追って廊下を右へ曲がると、いくつかのランプが灯った暗い長い廊下がつづいている。そこは古い洋館のようなところで、まっしろな人は「303」と書かれた扉をあけて中に入っていった。わたしも勢いこんでドアを開けた。だがそこにはただ便器があるばかりで誰もいない。うすく埃のつもったその蓋を開けると中にはやはり誰もいなかったが、水のないその便器にはあのつまらない詩集が入っていた。いったい、ここはどこなのか。炬燵のなかではないのだろうか。とにかくわたしはこんなことにつきあっている暇はないのだ。もう家庭教師のバイトの時間かもしれない。急がねばならぬ。部屋へ戻る手がかりになるものは藁でも何でもつかむ思いで、わたしは栞の挟んであるページを開けた。

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