ぱらだいす ぱらだ
「蹲るもの」

 私の町には「蹲るもの」がいる。私のうちの前の、電柱の影で、夜になると、いつもそれは蹲っている。時には着物を着て、時にはスーツ姿になって、それは蹲っている。

 こちらに背を向けてそれは蹲っているので、顔を見たことはあまりない。たまに顔を上げることもあるが、影になってよく見えない。目や口や鼻はあるのだろうか。分からない。暗がりの中ではあるようにも見えるし、ないようにも見える。

 それは、通りがかりの人に声を掛けてもらおうとして、苦しそうに蹲っているのだが、町の人間は心得たもので、誰一人声を掛けない。声を掛けてはいけないのだ。昔からそう言うことになっている。少なくとも、私のじいさんのそのまたじいさんの頃から、そう言い伝えられている。ということは、それは、その頃から、ずっと私のうちの前で、蹲っていることになる。

 声を掛けてはいけないということは、新しく引っ越してきた人たちに対しても徹底されている。新しくこの町に引っ越してきた人がいると近所の人が、町内会に通報して、町内会長がすぐにパンフレットを持ってその人の新居を訪ねるのだ。〈「蹲るもの」の対応について〉と題されたそのパンフレットには、それが出没する場所の地図とともに、こう書いてある。

「この町には『蹲るもの』がいます。それは苦しそうに蹲っていますが、決して声を掛けてはいけません。それは人間ではなく、『蹲るもの』だからです。『蹲るもの』が出没する場所は添付の地図の通りです。よく場所を確認して、決して声を掛けないようにして下さい。宜しくお願い致します。○○町内会一同。」

 そんなわけだから、「蹲るもの」に声を掛けるものは誰もいない。窓から見ていると、それはどこか寂しげだ。たまに立ち上がって、人が来ないかどうか、きょろきょろと見回し、人が来ると、「おっ」とばかりに蹲る。そして「来るぞ、来るぞ」と期待に胸を膨らませているのが傍からも分かるのだが、皆が無視して通り過ぎてしまうので、いつも肩透かしを食らわされている。そして通り過ぎていった人を「ああ、行っちゃったよ」みたいな感じで、見送ったりしている始末である。

 私はそれがあまりにも可哀相なので、ある日、冗談交じりに言ったことがある。
「いっちょう声でも掛けてやるか」
それを聞いた親父は真顔で言った。
「お前、冗談でも、そんなことを言うな」

 その時の親父の真剣な顔つきがいまだに忘れられない。親父は、怯えたような、恐怖に彩られた真剣な眼差しで私を見据えていた。そして私もいつか、何かの機会があれば、同じような眼差しで、自分の子供を見据えて話をするのだろう。そうやって、代々、我々の先祖たちもこの「蹲るもの」への戒めを伝えて来たのだろう。

 今日もそれは私の家の前で蹲っている。それは夜とともにやって来て、朝とともに去っていく。「蹲るもの」は人間ではない。だから、決して声を掛けてはいけない。

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